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MIZUNO 明日は、きっと、できる。

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スポーツ・ジャーナリスト
大村義和(Yoshikazu.Ohmura)
●1957年〜1970年デイリースポーツ社運動部記者。
入社早々からスポーツ紙(神戸本社発行)初の夕刊担当兼務で、当時のスポーツ全般を精力的に取材。卓球、水泳、山岳、スキー、高校野球、プロ野球企画もの、プロレス(力道山時代)から自動車レース(日本GP)、草創期からのボウリングなど。
●超過密・混迷期のボウリング界は風営化問題など多難の社会問題を抱え、乞われて“スポーツ化”を使命にフリーとなってドン底不況から復興期まで起死回生キャンペーンを成功させるなど助っ人を果たす。“文化づくり”(神戸市制百年にボウリング発祥記録発見など)も。
●フリー後も、毎日新聞夕刊連載、デイリー、日刊などスポーツ紙、マガジン専門誌に執筆。ラジオ関西、サンテレビ、朝日放送などの番組に出演。アジア大会(86ソウル、94広島)、88ソウル五輪、92バルセロナ五輪、98長野冬季五輪など取材。
●2001年世界卓球選手権大阪大会メディア委員長で、第2回日本卓球人賞・特別賞を受賞。世界ボウリング記者クラブ会員。1935年生まれ


--第80回目(2011年11月)のテーマは--

スポーツ記者の、もう一つの使命とは。
 *今日なお、あの日の感動再びを甦らせる記事もある。
 *55年前、体育館手動レーンのストライクからの夢は。
 *現存、最古の伝統、関西&関西学生Bowl選手権が半世紀。小林豊氏「創設期の記事を忘れない。今もー」
 *<米MLB伝説の名選手余話>H最終回。
 ルースとゲーリッグで107本塁打(1927年、ヤンキース101勝)ゲーリッグ愛用ファーストミット(日本製)の感触。

 携帯、パソコンの時代でも、新聞報道の重要さは変わらない。

 昨今、新聞離れの話題が出る。若い人が読まない声を直に聞くと、寂しい限りだ。携帯、パソコンがあれば―かも知れない。しかし、新聞報道(ネットでは補えない)は世の中がどう変わろうが欠く事ができないはずだ、なんて言えば古き時代のスポーツ記者の繰言と笑われるだろうか。

去る10月29日付け朝日新聞に「記者が消えた街」(元米誌記者スティーブン・ワルドマン氏を山中季広ニューヨーク支局長がインタビュー)を読んで、その感を強くした。
ニュース発掘力を持つ記者が市民のニーズを満たす−新聞の力だ。

スポーツ紙とて、ひいきのチームや選手の活躍ぶりを翌日の紙面で見たいと心おどらせるファンも多いし、また昔の新聞記事切抜きをわが青春の記録として後生大事に保存する人さえある。


 今日なお、古い新聞記事が心伝えて、あの日の感動再びーを甦らせることもある。

 つい数年前、日本代表や実力選手を多く育てた某有名大学卓球部指導者のお祝い会に招かれた。主人公ご夫婦が出席者にコピー紙を手配りし始めた。目をやると、主人公の若き学生選手時代の栄光めざしての涙ぐましい奮闘ぶりを取材したセピア色の記事コピーだった。

どうしてか、と思った直後に彼、主人公は私に視線を向けながら笑顔で「卓球なんか、と言っていた郷里の父がこの記事を読んで努力を評価して応援してくれるようなり、またこの記事のお陰で家内と結婚でき、今日が迎えられたのです。当時(約40年前)、高松で強化合宿中、地元女子高校生と親しくなり、彼女の母親が偶然、この記事を読み、交際を許してくれたのです」。

ニコニコ顔の夫人が私の目の前に。
「大村さん、有難うございました」にビックリのおよび腰。夫人とはその夜、初対面だった。
(まさか自分の取材記事が・・・)


 小林豊・関西学生ボウリング連盟会長の創立50年パーティでの言葉に、感慨ひとしお。

 この秋、スポーツ記者の若き日から温め続けてきた記者使命のひとつが、ちょうど50年の歳月を経て結実したような、深い達成感をあじわった。その結実の言葉を発してくれたのは、創立50周年を迎えた関西学生ボウリング連盟3代目・新会長の小林豊氏(66歳、現・小林製薬株式会社代表取締社長、甲南大ボウリング部OB)だった。

記念パーティ(9月19日、メルパルク大阪)冒頭「当初からの、あのデイリーの熱のこもった記事の数々と創立運営へのアドバイスを今も覚えています」から始まったスピーチ。

そして「学連は伝統誇る50周年を迎えましたが、今後も進化発展へのあくなき努力なくして伝統は輝き続けません」と結び、同時代の良きライバルで現役学連サポートの関西学生ボウリング協議会・米澤満会長(65歳、第1回全日本オープン選手権でプロを破って最初の公式グランドスラム優勝=当時近大4回生)とガッチリ握手をかわした。
両会長とも、創立者の薫陶を得た生え抜きだ。


 草創期のトップボウラー、小林・米澤両氏のストライク連発シーンは鮮やかだった。

 小林会長は、草創期の関西を代表するトップボウラーで関西、中国、九州の社会人含む精鋭参加の第2回関西選手権(西宮コマBC)で複優勝他、全日本、全日本学生、関西、関西学生の選手権で活躍。米澤会長とは学連選抜チームメートで全日本を戦ったこともあった。
リズミカルな5歩助走ステップからのストライク連発シーンが印象に残っている。


 米国ジュニアボウリング(課外教育)活動に刺激され普及啓蒙記事を書きまくった日々。

 「あの記事−」とは、若き日に使命感でペンと足で書きまくった私の記事だ。
(その記事スクラップブックが大阪BC,西宮コマBCに6冊)小コラム最終回に免じて私事ながら、かいつまんでの回顧を少しおつき合い願いたい。


 日本最初の体育館レーンが昭和31年、神戸山手短大に。(オートマチックBOWLより5年前)
 欧州でスポーツ性に魅せられた勝本学長が「品位ある学生クラブを」で共感した。

 神戸山手女子短期大学が学園創立40周年の1956年(昭和31年)体育館竣工時に、欧州でボウリングを楽しみ、そのスポーツ性にほれ込んだ当時の勝本鼎一学長が館内に、手動式ボウリング1レーンを特設した。

その翌年、同短大からほど近い三宮駅前の神戸新聞・デイリースポーツの運動部記者になった私が、スポーツ紙初の夕刊兼務となってスポーツ、レジャーのニュース&読物を書きまくった。

やがて米国で完全自動ピンセッター装置完成なったばかりのオートマチック・ボウリングが日本にも上陸近しの記事を紙面に掲載。

「立派なボウリング場が登場したら学生愛好者の品位あるクラブをぜひ実現したい」私の記事を読んだ勝本学長が何度もおっしゃる。
体育館内の手動式レーンでゲームを楽しむ学生たちを見ながら。


勝本学長は、教育文化ボウリングのパイオニアだ。

今から振り返れば、やはり近距離の神戸外国人倶楽部「KOBECLUB」に、神戸開港まもない1869年4月20日にボウリング3レーンとビリヤード設備があった発祥記録を、ひょっとしたら知っておられたのかも知れない。

明治生まれの気骨とロマンを秘めた信念の先人だった。(神戸ボウリング発祥記念碑は神戸市役所南の東遊園地内に。碑文作成を神戸市から私がおおせつかった)


 ★第1号大阪BC,西宮コマBC開場で連盟創立、第1回選手権。今秋めでたく「第50回」。

 そして米オートマチック化の第1号ボウリング場、大阪BC(近鉄)が1961年(昭和36)7月31日、大阪堂島に開場。
初代支配人今村宣彦氏(のちに近鉄球団社長、近鉄興業社長)らの協力を得て関西学生ボウリング連盟創立準備委員会が発足。

勝本学長を初代会長にスタート。翌年からの第1回関西学生ボウリング選手権が、ボウリング業界の超過密(一部上場の九割参入)オイルショックどん底、バブル経済崩壊、大震災など厳しすぎる時代の激動波にもめげず、今秋にめでたく「第50回大会」の慶節を迎えられたのだ。


 日体協加盟を実現「全日本ボウリング協会」の「国体」「アジア大会」参加の躍進-。

 「アマのJBC「全日本ボウリング協会」が1983年(昭和58)に晴れて日本体協加盟を果した。」
(その5年前、未加盟ながら78年バンコクでの第8回アジア競技大会で日本が金メダル2個=しかも選手は半数)晴れて体協加盟後の86年の第10回アジア競技大会(ソウル)では日本が金6個で"ボウリング・ニッポン"の新聞見出しも。

そして88年(昭和63)には第43回「京都国体」に宿願の正式競技参加。同年の第24回「ソウル五輪」にも参加(エキジビション)日本代表浅井敦子が銀メダル。
むろん、スポーツ記者の当然の使命役割と取材参加で率先して多方面への広報活動に全力投球したのは言うまでもない。

記者としての報道使命、そして数多くの人たちと友好的に接しながら提言し、スポーツ発展に惜しみない協力-それが私なりのスポーツ記者の信条・使命だと考えてきた。たとえ微力であったとしても。


 "スポーツボウリング"の原点、現存最古の公式選手権「第50回関西選手権」は、東日本大震災復興支援<とどけようスポーツの力を東北へ>をスローガンに、阪神大震災被災・再建の神戸六甲ボウルを舞台に熱戦展開。砂古口大会会長は「ボウリング史の礎に」。

 去る10月22,23日、わが国ボウリングの現存・最古の公式選手権「第50回関西ボウリング選手権」が東日本大震災復興支援をうたって開催(神戸六甲ボウル)。関西2府4県代表(関西学生選抜も)のなかには「山口国体」で活躍の選手(少年の部も)たちも、伝統競技に熱戦を展開。

砂古口信夫・関西ボウリング連盟理事長(69歳、大阪府ボウリング連盟会長、全日本ボウリング協会理事)が「スポーツボウリングの原点を精神に発展譜を重ねて50年、幾多の困難、課題を乗り越えての歩みが大きなボウリング史の礎になりました。新発展で60年、70年目指して」と開会スピーチ。50回記念大会優勝者までの歴代優勝者記録集に私のイラスト画(伝説の第1回大会・大阪BC)を掲載してくれるとか。うれしいではないか。

ボウリングはメジャーではない。
しかし、彼らは半世紀の激変混迷の時代、厳しい嵐(業界不況、風営問題など)にもめげず、むしろ結束強め、ひたすら純粋にスポーツ理念を守り抜いた。不透明で理念なき今日の日本まで−。拍手を送りたい。

(注)過去、東京を中心に数多いプロ、アマ人気トーナメントが数多く開催されてきたが、厳しい不況などで消え(中止)てゆき、関西、関西学生が最古の公式選手権となった。



<米MLB伝説の球聖余話>
「メジャークラシック」H 最終回
昨季、10年連続200安打の偉大なる大リーグ新記録。今季11年連続を惜しくも逸したが、来季に新たな可能性に挑戦するイチロー選手。
彼の時空を超えたバットの快音が開扉させる伝説の名選手たちの勇姿とこぼれ話。


 ユニフォームの背番号誕生と史上初の永久欠番は−。(3番ルース、4番ゲーリッグ)

 「打撃王」という映画が封切られると、兄は僕を連れて映画館に走りました。(中略)以来、ゲーリッグを尊敬しています。彼も左打者で一塁手でしたしね。後に僕が巨人に入団した時、兄は僕の背番号がゲーリッグと同じ「4」だといいのになと思ったそうです。(野球にときめいて―王貞治、半生を語る。中央公論新社より)

大リーグでユニフォームに背番号を入れたのはヤンキースが初めて(1929年4月)で、番号は打順で表わし、ベーブ・ルースが3番、ルー・ゲーリッグが4番だった。

そのゲーリッグが、彼のために設けられた感謝デーで、今なお語り伝えられる、ファンとチームメートへの万感迫る別れの言葉を。その日、ゲーリッグの背番号「4」は、史上初の永久欠番となった。(1939年7月4日)


 1927年、ルースとゲーリッグ二人で107本塁打、ヤンキースは創設最多の101勝。

 「野球を離れてもルースとゲーリッグはペアを組んでいた仲の良さ」と回想するエレノア・ゲーリッグ夫人。

ルースが新記録の60本塁打(打点164、打率356)の1927年、ゲーリッグはア・リーグのMVP(本塁打47、打点175、打率373)に選ばれた。
ヤンキースは創設以来の最多勝利101勝で"史上最強チーム"といわれた。


 鉄人ルー・ゲーリッグの愛用ファーストミット(日本製)の感触を水彩色で表現すれば。

 "その鉄人ゲーリッグが愛用のファーストミットが日本製だった"−ビッグ・トピックス秘話は小コラム41号(2006年3月)に紹介ずみだが、その里帰りミットに直接手に触れる幸運に恵まれた。

緊張しつつ5本の指を差し入れた瞬間の感触、感激はまだわが手に余韻がかすかに残っている。

牛革は使い込まれてなめらかで黒光りもしているが、保存良好で指先から何か神秘的な温もり感さえあった。
カメラで何枚も撮ってみたが、神秘的な温もり感まではプリントできない。

そこで水彩絵の具でグラデーション筆致をこころみた。
彩り感の変幻効果が、鉄人ゲーリッグの魂の世界をちらり筆毛で表現できたか、どうか−。
稚拙な画をご笑覧くだされ。



<参考資料>
「卓球人」No.16、「関西学生ボウリング連盟創立40周年記念誌」(関西学生ボウリング協議会)、「関西ボウリング連盟20周年記念誌」(関西ボウリング連盟)、「野球にときめいて―王貞治、半世紀を語る」(王貞治著、中央公論新社)、「ヤンキー・スタジアム物語」(スコット・ピトニアック著、松井みどり訳、早川書房)、「ゲーリッグと私」(エレノア・ゲーリッグ、ジョセフ・ダーソー共著、宮川毅訳、ベースボール・マガジン社)「世界のボウリング100年の歴史と至難・スポーツ化に燃えた50年」(大村義和著、遊タイム出版)、デイリースポーツ紙ほか。


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